戦後復興・成長期 │ 1945(昭和20)年ー1983(昭和58)年

1945年正祝が遺志を継ぎ、学校建築に尽力する

終戦の年、昭和20年2月、かねてより病気療養中であった菊太郎が47才の若さで永眠する。9月、学業を終えたばかりの22才の正祝が、父菊太郎の遺志を継ぐ決意を固める。
戦後の学制改革により新制の小・中学校が各地で誕生する時代、祝正は、地元の御所小学校や葛城中学校を手始めに、昭和58年までに奈良県内の53校を手掛け「学校建築のカジタ」として名を馳せる。

  • 二代目社長 鍜治田 正祝 (1923-2000)
    二代目社長 鍜治田 正祝
    (1923-2000)
  • 御所小学校(1951年)
    御所小学校(1951年)
  • 御所実業高校建築現場(1957年)
    御所実業高校建築現場(1957年)
  • 二代目社長 鍜治田 正祝 (1923-2000)
    二代目社長 鍜治田 正祝
    (1923-2000)

1960年新社屋に移転し法人化、
株式会社鍜治田工務店の誕生

官公庁から病院・学校、住宅、民間事業所へと、拡大する事業規模への対応と社会的な責務を果たすため、昭和35年12月、資本金500万円をもって法人化、株式会社鍜治田工務店が誕生する。
同時に、待望の新社屋を現在の奈良本社の地に建設し、さらなる発展をめざし新たな一歩を踏み出す。

  • 新社屋
    新社屋

1964年初の県外拠点、大阪営業所を開設 
~時代を見据え、製材工場を廃止~

昭和39年1月、初の県外拠点として、天王寺区上本町に大阪営業所を開設し、所長には恭男専務が就いた。
同時に、建築材料の主役が木材から鉄筋コンクリートに移り、安い輸入材が大量に出回る時代を迎え、当社の躍進を支えた製材工場はその役割を終えたと判断、廃止することとした。

  • 新社屋
    新社屋

1970年代大阪万博、不動産ブーム、そしてオイルショック
激動の時代でも本業に徹する

大阪で万国博覧会が開幕し、地価の高騰による空前の不動産ブームが到来するも、オイルショックにより景気は急激に失速する。
しかしこの間、当社では大規模公共施設などを相次いで手掛けるなど本業に徹し、業績を着実に積み上げていくことができた。

  • 御所市公民館(1973年)
    御所市公民館(1973年)
  • 新庄町町民体育館・公民館(1975年)
    新庄町町民体育館・公民館(1975年)

1976年大阪営業所を移転し支店に昇格

大阪営業所では、オイルショックによる建設資材の不足と高騰にも必死に耐え、昭和49年には工事部を設置し技術スタッフも揃うなど、独自の展開が可能なまでに成長を遂げていた。
そこで昭和51年11月、支店昇格するとともに、手狭になっていた上本町から谷町九丁目の東カイ興産ビルに移転、大阪の大きな市場に挑む拠点としての体制を整えた。

  • 昇格した大阪支店が入居した東カイ興産ビル
    昇格した大阪支店が入居した東カイ興産ビル
  1. 創成期
  2. 戦後復興・成長期
  3. 市場創造期
  4. 新時代創成期
  5. 飛翔期
  6. 持続的成長期

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